【HHM未投稿作品】誰かパクって!

下の文書(1月31日投稿)を書き殴る前には、もう少し真面目に、現在三冊しか持っていない「現代詩文庫」の中で一番お気に入りの一冊、『小池昌代詩集』からの引用で始め、何か書けないかな? と思っていました。

 ニュウリンとは、「乳輪」のこと。お産をとり囲む言葉の数々は、今までの日常からやや違う層に属していて、私の耳には、日々新鮮である。こんなときでないと、味わう機会がなかなかないような、面白い言葉にたくさん出会う。

小池昌代「産褥棟」『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、2003年、134ページ.

女性である小池氏の「耳に」「新鮮であ」った「『乳輪』」という言葉を、実は私は、「日常」的に使っていました。勿論、その言葉を公共の場で連呼していた、などということはないのですが、たとえば、プライベートな空間である種のコンテンツを観ている時や、男性のみの席である種の会話に興じている時などに、使っていました。特に私だけの問題ではなく、多くの男性にとって思い当たる節があることだと思うのですが、とはいえこの言葉を、女性である小池氏の文章から、「こんなときでないと、味わう機会がなかなかないような、面白い言葉」の一つとして提示された時には、なんとも居心地が悪い感じを、味あわさられました。続いて──。

 例えば、陣痛が本格的に始まる際の、「おしるし」という言葉がある。「そのとき」を告げる、神からの刻印のような名称である。血にまみれる、極めて動物的なお産という行為に、こうした言葉がなにげなく使われるとき、子を産む女性に、崇高な光が、一瞬だけ、あてられるような気がする。
 どろっとした血の塊りが出るらしいのだが、これこそがおしるしだ、と図で示せるものでなく、それぞれがそれぞれの身で確認するしかない。自分の身体を通して習得する言葉が、このように、いまだあるのだということも、私には新鮮な経験だった。

同上、134−135ページ.

「それぞれがそれぞれの身で確認するしかない。自分の身体を通して習得する言葉」──。現場主義的な中年オヤジでも似たようなことを言い出しそうですが、「どろっとした血の塊りが出るらしい」という部分には、そうした中年オヤジ的空威張りとは、異質な「すさまじ」*1さを感じます。

とはいえ、「言語による女性の身体の植民地化」などといった話になってしまっては、現代思想嫌いな私としては、面白くもなんともないわけですが、どうやらそちらの方向でしか、纏らない話のような気がして来まして、結局自分では、書き出すことができませんでした。

他にもたとえば、

アメリカ、サンタ・フェのバスルームで
あけがた
長い長い静かな放尿の音をたてていると

小池昌代「あけがたの短い詩」『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、2003年、110ページ.

などといった詩句についても、それを、多分女性達が互いに了解し合っているだろう文脈とは違った文脈で使用するだろう男性の存在の可能性について、著者はどう考えているのか? などといった点について書いてみたかったのですが、「流通の過程においては敢えてポルノを偽装しつつも、その実、排泄もすれば老化もする当たり前の身体の取り戻しのための、ある女性の戦略的言語使用」、などといった話になってしまっては、私としては、詰まらないのです。

というわけで、結局何も書けませんでした……、ということです。

(ほら、見てみな)
(さわってみな)

そのとき
女の手がのびるかわりに
私のなかから手がのびて
なにかとてもあたたかいものに指が触れた
ほの暗く
どの場所よりも深い、人間の股
その股を
あんなふうに押し広げられる男とは
いったい、どういう人間なのか
映画のなかの
人間の経験は
そのとき
私のなかでよみがえり
おしつぶされた私を
そのまんなかからあたためてくれた

小池昌代「Penis from Heaven」『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、2003年、78ページ.

最近あまり聞かなくなりましたが、バブルの頃から世紀を跨いで、ファルス=ロゴス中心主義などということが言われていました。そのファルスについて、「おしつぶされた私を/そのまんなかからあたためてくれた」などと詠ってくれる詩人でもあるという点から、何か引き出せないか? という気もしたのですが、それでは、「男性/女性」一般についての解釈にしかならないでしょう。私個人としては、「でもあなたのようなひとには、私の作品を読んでもらいたくない」、と言われてしまう可能性についても、考慮しないわけにはいきません。
それで、適当な誰かに続きを書いてもらいたいな……、という感じなのですが、あなた、いかがですか? それでは……。

*1:一般的な意味での凄まじいではなく、同じ作品のあとのほうに見られる、「結局は、助産婦さんが、私のパッドについたそれを分析して、『確かに破水です』ということになった。ひとの、血にまみれた分泌物をパッドごと検査するという、助産婦とは、すさまじい職業だと思った」、という部分の「すさまじい」に呼応させてみたのですが、こういう引用ってありなのでしょうか?
小池昌代「産褥棟」『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、2003年、135ページ.