筒井康隆『文学部唯野教授』を読んで

 今回この本を読み返してみて思ったのは、これも私の、青春の一ページだったな、ということです。もっともそれは、振り返って懐かしいものではなく、むしろ不快な、ある種の人達の怒号や哄笑ばかりが、思い浮かんで来るようなものです。「『(略)困るんだよね。こういうの。本気で社会を変革しようなんて思ってないのにさ。でもこの時期、ちょっと小説が好きというだけでケンブリッジへ入ってきた学生、びっくりしただろうね。来てみたら学生運動に近いことやってるんだものね。(略)』」*1これは早治大学文学部唯野教授が、一九三〇年代のスクルーティニー派について講義している部分なのですが、一九九〇年代にちょっと詩が好きというだけでどこかの文芸サークルに入って来た青年も、びっくりしました。とはいえその頃幅を利かせていたポストモダン系の学生達は、自分達は脱学生運動だと思っているようでしたし、脱サヨクだとも思っているようでした。ですが、彼らが主流派だったとあるサークルの合評会での議論は、対立セクトの「スターリニスト」を糾弾するような感じでした。
 そしてその感じが、例えば、「『(略)これがたちまち、運動に挫折した左翼の大学人の間で大流行します。『現実的に』とか『科学的に』とか『論理的に』なんてことを言うと、たちまち『形而上学的だ』『古くさい』『意味がなんにもない』といって罵倒されるようになっちまったんだからひどいもんだよね(略)』」*2といった具合に、あとのほうで何度も、変奏されて出て来ているような気がしました。因みにこれは、ポスト構造主義についての講義の一部です。
 それと、「『(略)デリダはこう言いました。『アメリカのディコンストラクションは、自分で自分を閉ざされた制度の中へ閉じこめてしまって、その結果はアメリカ社会を支配している政治経済を有利にしてしまっている』つまりさ、ポスト構造主義ってのはもともと、さっき言ったように、マルクス主義政治学を破綻したものだと決めつけたところから出発していることでもわかるでしょ。デリダディコンストラクションってのは、そもそもが政治的な実践だったの(略)』」*3ということなのですが、しかしその「『(略)ポスト構造主義の親玉(略)』」*4本人が、他の部分で「『(略)さっき言ったように、(略)』」*5「『(略)デリダはこうした、誰でもがそうだと思うような基礎のことば、『神』だの『自由』だのといった自明の根拠を頼みの綱にして、そこから階層的な意味構造を作りあげようとするイデオロギーには全部、『形而上学』というレッテルを貼ってしまいました(略)』」*6ということでもあるのですから、誰かが「『(略)『(略)アメリカ社会を支配している政治経済を有利にしてしまっている(略)』(略)』」*7からといって、そのことの何が問題になるのかな、と疑問に感じました。

*1:筒井康隆文学部唯野教授岩波書店、1990年、62−63ページ.

*2:同上、298ページ.

*3:同上、300−301ページ.

*4:同上、289ページ.

*5:同上、301ページ.

*6:同上、289ページ.

*7:同上、300−301ページ.