筒井康隆『文学部唯野教授』を読んで

 今回この本を読み返してみて思ったのは、これも私の、青春の一ページだったな、ということです。もっともそれは、振り返って懐かしいものではなく、むしろ不快な、ある種の人達の怒号や哄笑ばかりが、思い浮かんで来るようなものです。「『(略)困るんだよね。こういうの。本気で社会を変革しようなんて思ってないのにさ。でもこの時期、ちょっと小説が好きというだけでケンブリッジへ入ってきた学生、びっくりしただろうね。来てみたら学生運動に近いことやってるんだものね。(略)』」*1これは早治大学文学部唯野教授が、一九三〇年代のスクルーティニー派について講義している部分なのですが、一九九〇年代にちょっと詩が好きというだけでどこかの文芸サークルに入って来た青年も、びっくりしました。とはいえその頃幅を利かせていたポストモダン系の学生達は、自分達は脱学生運動だと思っているようでしたし、脱サヨクだとも思っているようでした。ですが、彼らが主流派だったとあるサークルの合評会での議論は、対立セクトの「スターリニスト」を糾弾するような感じでした。
 そしてその感じが、例えば、「『(略)これがたちまち、運動に挫折した左翼の大学人の間で大流行します。『現実的に』とか『科学的に』とか『論理的に』なんてことを言うと、たちまち『形而上学的だ』『古くさい』『意味がなんにもない』といって罵倒されるようになっちまったんだからひどいもんだよね(略)』」*2といった具合に、あとのほうで何度も、変奏されて出て来ているような気がしました。因みにこれは、ポスト構造主義についての講義の一部です。
 それと、「『(略)デリダはこう言いました。『アメリカのディコンストラクションは、自分で自分を閉ざされた制度の中へ閉じこめてしまって、その結果はアメリカ社会を支配している政治経済を有利にしてしまっている』つまりさ、ポスト構造主義ってのはもともと、さっき言ったように、マルクス主義政治学を破綻したものだと決めつけたところから出発していることでもわかるでしょ。デリダディコンストラクションってのは、そもそもが政治的な実践だったの(略)』」*3ということなのですが、しかしその「『(略)ポスト構造主義の親玉(略)』」*4本人が、他の部分で「『(略)さっき言ったように、(略)』」*5「『(略)デリダはこうした、誰でもがそうだと思うような基礎のことば、『神』だの『自由』だのといった自明の根拠を頼みの綱にして、そこから階層的な意味構造を作りあげようとするイデオロギーには全部、『形而上学』というレッテルを貼ってしまいました(略)』」*6ということでもあるのですから、誰かが「『(略)『(略)アメリカ社会を支配している政治経済を有利にしてしまっている(略)』(略)』」*7からといって、そのことの何が問題になるのかな、と疑問に感じました。

*1:筒井康隆文学部唯野教授岩波書店、1990年、62−63ページ.

*2:同上、298ページ.

*3:同上、300−301ページ.

*4:同上、289ページ.

*5:同上、301ページ.

*6:同上、289ページ.

*7:同上、300−301ページ.

僕も作ってみました!

最近ひょんなことから、『Uncyclopedia』を巡回するようになりまして、そこで、「君は牛を二頭持っている。」という前振りで始まるジョークを、幾つか読みました。自分でも作ってみました。

TPP に入っても日本の農業は大丈夫だという主張の根拠
君は牛を二頭持っている。
私は牛を一頭しか持っていないが、しかしその牛は、松阪牛である。

TPP に入りさえすれば日本経済がどんどん成長して行くという主張の根拠
君は牛を二頭持っている。
私は特許を二つ持っていて、そして彼は、息子を二人持っている。

なんだかあまり、巧く作れてませんね……。とはいえ、話を勝手に広げている感じがするのなら、それは僕が悪いんじゃなく、元々 TPP 推進論者達の主張の中に、そうした要素があるんじゃないかと思います。
まぁ全然笑えないのは僕のせいなんでしょうけど……。実は松阪牛も、特許も持っていない僕自身が、読んで下さった皆さん達よりももっともっと、笑えてないんですけどね……。
ところで、息子を二頭と書いて抹消線でも引いとこうかとも思ったんですが、万が一にも、それが僕の本音だと思われたら厭ですからね……。でも、TPP 推進論者達に皮肉を飛ばすのには、結構いい手だと思ったんですが……。
最後にオマケ……。

日本の現状についての(僕以外の!*)誰かの見解
君は牛を二頭持っている。
私も牛を二頭持っていて、彼も牛を二頭持っている。
私の牛が、一番草を食う。乳も出さない牡牛のクセして……。

失礼しました。

───

* では一体、誰の見解なんでしょうか? 例えば前々回、この Diary でも引用した、上野千鶴子氏あたりも案外……。
「ネット上での発言者には、性別や年齢を特定することができません。ネカマ(ネットオカマ)と呼ばれるネット上の性別転換者までいるぐらいですから、ハンドルネームだけではかれらが何者であるかはわかりません。ですが、電子フォーラムやチャットなどのヘビーユーザーの研究から、その人たちが、若年男性に集中していることがわかっています。投稿の時間帯の分析などからも、無職やフリーターが多そうなことも推測されます。」(上野千鶴子「女たちのサバイバル作戦──ネオリベ時代を生き抜くために 第八回 ネオリベバックラッシュナショナリズム」『文學界』2012年11月号、株式会社文藝春秋、258−259ページ.)
ネオリベ改革のせいで格差に苦しみ不遇をかこつ『ボクちゃん』(ネットのヘビーユーザーには三十代までの男性が多いことはこの時期にわかっていましたから)たちは、もともと右翼的な思想の持ち主でなくても、マイノリティへの冷笑から、ナショナリストたちと同盟を組みます。『敵の敵は味方』というわけです。」(同上、263ページ.)
まぁこのひとを例に引くのは、ちょっとアンフェアなのかもしれませんがね……。でもあまり、新しい本、買えませんし……。とにかくこのひとが、「ヘビーユーザー」や「若年男性」が大層お嫌いらしいってことは、上の引用からも明かなんじゃないでしょうか? たとえ乳が出なくても、食わなきゃ死んじゃうんですけどね……。
「第三に、かれらはネット強者です。それはこの人たちがネットのヘビーユーザーの層と重なるからかもしれません。ブログ、ツイッター、HPの活用などは、対抗勢力の側も学ばなければならないぐらいです。」(同上、266ページ.)
この「対抗勢力の側も……」ってところは、強烈ですよね? それにしても、少なくとも「かれらはネット強者で」はあるわけです。にも関わらず、「ネオリベ改革のせいで格差に苦しみ不遇をかこ」っていなければならないというのは、どうしてなんでしょうね?

『SFマガジン』最新号先取り批判

クソーッ! 『SFマガジン』最新号の特集はコニー・ウィリスかーっ! 絶対買わんっ! 以下、こんないい加減な文章なのに、一応ネタバレ注意!

「わが愛しき娘たちよ 」*1って、結局 TENGA の話ですよね? そうでしょ?

未来の寄宿学校の男子学生たちの間で TENGA みたいなものが流行って、それを女子学生たちが禁止に追い込む話……。

「ちょっと待ってよ! そんな一面的な裁断の仕方って、ないでしょ! 大体あれは──」
「そう! 生物! だから動物虐待にもなっちゃってるわけで……、性の問題だけじゃなく、もっと重層的な問題で……、って……。んじゃ、TENGA のほうは問題なし? そうかな? ウィリスのあれが流行ってた頃って、『女性器が女性の身体を離れ、それが切り取られた状態で流通に乗り、売買され、消費ないしは搾取されていることについての、女性としての、なんとも言えない違和感が……』なんて言い方、流行ってたよね? そのものズバリじゃなかったろうけど、小谷真理さんなんかも、そんな風なこと、言ってなかった? それじゃ、生物/無生物に関係なく、やっぱ TENGA 禁止? 果てはオナ禁? なんかの宗教の原理主義みたいになって来ちゃったね? そう言えばウィリスって、若い作家たちの『聖書』からの引用がヘン──、みたいなこと、どっかで書いてなかったっけ?」
「そんなこと言ってないでしょう! それでもあなた方男性たちは、生きて動いて過剰なものまで付いてしまっている TENGA としてじゃなく、分割不可能な開かれた全体として、他者を見る必要があるんです! そしてあの、可哀そうな生物についても、男性の性処理に有用だという部分以外も含めた開かれた全体として──」
「そう、じゃ、TENGA についても開かれた全体として? そもそも開かれた TENGA って何?」
「その TENGA だって、社会ないしは広義の経済の中に埋め込まれた状態で、再解釈してみる必要があるんです!」
「そうかな? すると僕には、切り取られた男性の姿のほうが、よく頭に浮かんで来るな……。社会から切り取られて……。いやすでに、小・中学校の頃からクラスから切り取られて……。恋人は二次元で……。セフレは TENGA で……。今キモッて思ったでしょ? 自分でもそう思うよ。だからそんな奴は、他者を見たりなんか、しないほうがいいんだよ。なぜって、そいつが他者を見てるシーンって、その他者のほうでも、そいつが見えちゃってるシーンだからね? それってやっぱ、キモいんでしょ?」
「だからそもそも、そのキモいのを止めればいいんですっ!」

『スタトレ』好きの王道のSFファンが、ユルいSFファンを馬鹿にする時にも、この手の話の組み立てって、入って来ますよね? 「ちゃんと他者と向き合って」……、とかってヤツ……。宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力*2にも、そんな部分、ありましたっけ……。まあ『スタトレ』好きが本当にSFファンの王道なのかは、さらに王道なひとたちからの異論があるのでしょうが……。

今回も難癖で失礼! バイバイッ!

*1:コニー・ウィリス『わが愛しき娘たちよ』大森望訳、早川書房(ハヤカワ文庫SF)、1992年、所収.

*2:宇野常寛ゼロ年代の想像力早川書房ハヤカワ文庫JA)、2011年.

今回は脚注で揃えてみました!

先日、西村賢太氏の新作目当てで『文學界』(2013年5月号)を一号遅れで購入しました。
さる大型書店チェーンの多分本店で……。
その都内の大型書店には、何かの用事があって近くに行った時には必ず立ち寄るようにしていて、『現代詩手帖』などを購入しているんですが、同誌が店頭になかった場合、『SFマガジン』、あるいは上記『文學界』などを購入しています。とはいえ、前回の西村氏目当ての『文學界』に掲載されていたのは「豚の鮮血」でしたから、まあ、『現代詩手帖』などを、随分買ってしまったということになります……。

そこで久しぶりの Diary 投稿に、今回購入した『文學界』をザッと読んでみた感想などを書いてみたいんですが……。
予定では、読み切り作品の感想ぐらいは全作品連日連続投稿で──、と行きたいところなんですが……。
でもまずは、あくまでザッと読んでみた感想……、ということで、今回購入の号全体についての感想を……。

①「メッテルニヒ氏」*1のことは、いつか私も、ちゃんと調べてみたいと思っています。この佐藤亜紀氏の連載、早く単行本出ればいいのに……。その本には、参考文献表もありますよね? 勿論本文も熟読しますが、本当に、自分でも調べてみたいんです。
②えっ? シモーヌ・ヴェイユって、そんないいひとだったんですか? 「つまり、悲惨な状況におかれた人間がいたら、その人に『権利がある』というよりも前に、とりあえずわたしたちにはこの人を助ける『義務がある』というふうに考えたほうがよいのです。」*2少なくとも、私の前に現れたヴェイユは、そんないいひとじゃなかったです。自分でも工場で働いてみたり、自分に厳しいひとではあったようですが、その分他人にも厳しいひと……、という感じでした。「権利」の主張よりまず「義務」を果たせ! というほどマッチョなひとではないのでしょうが、とはいえ読む側が、そのように解釈する余地はありますよね? 「つまり、悲惨な境遇にある人間に向かって『あなたにはなになにする権利がある』なんて言っても、その人には関係ないんです。関係ないから、貧乏や悲惨な状況に置かれているんです。『権利がある』とか、そういうふうなことを言う人は、既にして、そういう特権を持っているんだとヴェイユは考えます。」*3このヴェイユは確かに、私の前に現れた──というより立ち塞がった──ヴェイユです。「今君は『権利』と言ったね! しかもそれが、当然の前提であるかのように! それが君が、今までいかに甘やかされて育って来たかと言うことの、証拠の一語なんだよ! 本当に悲惨な人間は、『権利』だなんて甘いことは、言えやしないんだ!」そういうセリフが出てくる場面って、普通言われている側が殴られていたりして、言っている側が殴っていたりするんですが……。充分「悲惨」ですよね? 最首悟とかいう糞野郎の本からの、孫引きのヴェイユだったようですが……。数年後私の前に、ガヤトリ・C・スピヴァクとかいうひとが、まったく同じ現われ方をしました。「本当だったらそんな風に、語れてはいない筈なんだ!」とか……。
上野千鶴子氏の連載の最終回を読めた点はラッキーでした。ただこのひと、「日本の女のこれからを思うと、サステイナブルよりサバイバル、の方が切実だとわたしには思えます。たとえ難民になっても、亡命しても、どこででも生き延びていけるスキルを身につけてほしい、と思うようになりました。それは資格を集めたり、専門スキルを身につけることと同じではありません。自分にたとえ力がなくても他の社会的資源を動員できる能力、いわば生きる上での才覚というものです」*4などと、困難なことをサラッと言っちゃっている感じがします。そんな「才覚」が持てるんなら、誰も悩んじゃいませんよ……。おそらく、男女問わず……。それでも、そういう時代は厭でもやって来るってことでしょうね? 「ただし十回で述べたように、差別的企業が従来の雇用慣行を温存したまま現状維持でいるあいだに、革新的企業(その多くは外資系でしょうが)に国際競争で敗北していく危険があることは覚えておきましょう。」*5結局このひと、「ネオリベ」を歴史の碾き臼として肯定しちゃってるんじゃないでしょうか? そうなると、「ネオリベ」と「ネオコン」とを一々区別している点なんかも、学問的に正確を期す──、というようなこととは違った文脈を持ってくるような気がするんですが……。
④「ようするに『現実は虚構だ』と口にするその当人が、自分だけは『虚構=現実』とは別のどこかにいると微塵も疑わない。そういう余裕な精神にちょっと『現実』を突きつけてやるだけで、蜂の巣をつついたように大騒ぎする。そんな光景を腐るほど見てきた」*6というところは良かったんですが、「そんな光景を腐るほど見てきた」筈のひとが、「デリダもそうだった」*7などと書いてしまっているのは、どうも……。いや、「ちょっと『現実』を突きつけてやるだけで、」デリダだってどうせ「大騒ぎする」さ──、というんなら、別に構わないんですが……。そのデリダに係わる部分を、もう少し長めに引用してみましょう。「小林秀雄の『本居宣長』を思い出そう。小林は古事記の世界では言葉と現実の区別がないと言った。その『神の言語』が『漢意』(現代風に言えば心情よりも尺度や数値を優先する科学主義)によって堕落する。そこから再び神の言語の境地に到ること、それが宣長の試みである、そう小林は書いた。本書に即してそれをSF的な世界と言ってもいいかもしれない。しかし、重要なことは、そんな神的領域に行くために、宣長=小林は、想像を絶する苦難に耐えたということだ。デリダもそうだった。」*8私の周囲で「デリダによれば……」などと言ってたひとたちによれば、「テクストの外部には何も存在しない」とかいうのが当然の前提で、「それなのに君みたいな馬鹿が(つまり、私のことなんですが……)、未だに素朴に、『外部』なんてモンを信じちゃっているよね」というのが、いつも繰り返される結論でした。すると彼らも、その「想像を絶する苦難」とやら「に耐えた」ってんでしょうか? 確かに彼ら、そんな風なことも言ってはいましたが……。「蜂の巣をつついたよう」な「大騒ぎ」の中で……。

以上、全体からザッと見繕って……。とはいえそれで、全体についての感想になるというわけじゃないんでしょうが……。結局、今回もまた書けませんでした……。
失礼しました。

*1:佐藤亜紀メッテルニヒ氏の仕事─第五部─」『文學界』2013年5月号、株式会社文藝春秋、32−91ページ.

*2:鹿島茂「なぜ『レ・ミゼラブル』は人の心をうつのか?」『文學界』2013年5月号、株式会社文藝春秋、256−257ページ.

*3:同上、256ページ.

*4:上野千鶴子「女たちのサバイバル作戦──ネオリベ時代を生き抜くために 最終回 女たちのサバイバルのために(後編)」『文學界』2013年5月号、株式会社文藝春秋、302ページ.

*5:同上、296ページ.

*6:大澤信亮藤田直哉『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』」『文學界』2013年5月号、株式会社文藝春秋、336ページ.

*7:同上.

*8:同上.

【HHM未投稿作品】誰かパクって!

下の文書(1月31日投稿)を書き殴る前には、もう少し真面目に、現在三冊しか持っていない「現代詩文庫」の中で一番お気に入りの一冊、『小池昌代詩集』からの引用で始め、何か書けないかな? と思っていました。

 ニュウリンとは、「乳輪」のこと。お産をとり囲む言葉の数々は、今までの日常からやや違う層に属していて、私の耳には、日々新鮮である。こんなときでないと、味わう機会がなかなかないような、面白い言葉にたくさん出会う。

小池昌代「産褥棟」『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、2003年、134ページ.

女性である小池氏の「耳に」「新鮮であ」った「『乳輪』」という言葉を、実は私は、「日常」的に使っていました。勿論、その言葉を公共の場で連呼していた、などということはないのですが、たとえば、プライベートな空間である種のコンテンツを観ている時や、男性のみの席である種の会話に興じている時などに、使っていました。特に私だけの問題ではなく、多くの男性にとって思い当たる節があることだと思うのですが、とはいえこの言葉を、女性である小池氏の文章から、「こんなときでないと、味わう機会がなかなかないような、面白い言葉」の一つとして提示された時には、なんとも居心地が悪い感じを、味あわさられました。続いて──。

 例えば、陣痛が本格的に始まる際の、「おしるし」という言葉がある。「そのとき」を告げる、神からの刻印のような名称である。血にまみれる、極めて動物的なお産という行為に、こうした言葉がなにげなく使われるとき、子を産む女性に、崇高な光が、一瞬だけ、あてられるような気がする。
 どろっとした血の塊りが出るらしいのだが、これこそがおしるしだ、と図で示せるものでなく、それぞれがそれぞれの身で確認するしかない。自分の身体を通して習得する言葉が、このように、いまだあるのだということも、私には新鮮な経験だった。

同上、134−135ページ.

「それぞれがそれぞれの身で確認するしかない。自分の身体を通して習得する言葉」──。現場主義的な中年オヤジでも似たようなことを言い出しそうですが、「どろっとした血の塊りが出るらしい」という部分には、そうした中年オヤジ的空威張りとは、異質な「すさまじ」*1さを感じます。

とはいえ、「言語による女性の身体の植民地化」などといった話になってしまっては、現代思想嫌いな私としては、面白くもなんともないわけですが、どうやらそちらの方向でしか、纏らない話のような気がして来まして、結局自分では、書き出すことができませんでした。

他にもたとえば、

アメリカ、サンタ・フェのバスルームで
あけがた
長い長い静かな放尿の音をたてていると

小池昌代「あけがたの短い詩」『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、2003年、110ページ.

などといった詩句についても、それを、多分女性達が互いに了解し合っているだろう文脈とは違った文脈で使用するだろう男性の存在の可能性について、著者はどう考えているのか? などといった点について書いてみたかったのですが、「流通の過程においては敢えてポルノを偽装しつつも、その実、排泄もすれば老化もする当たり前の身体の取り戻しのための、ある女性の戦略的言語使用」、などといった話になってしまっては、私としては、詰まらないのです。

というわけで、結局何も書けませんでした……、ということです。

(ほら、見てみな)
(さわってみな)

そのとき
女の手がのびるかわりに
私のなかから手がのびて
なにかとてもあたたかいものに指が触れた
ほの暗く
どの場所よりも深い、人間の股
その股を
あんなふうに押し広げられる男とは
いったい、どういう人間なのか
映画のなかの
人間の経験は
そのとき
私のなかでよみがえり
おしつぶされた私を
そのまんなかからあたためてくれた

小池昌代「Penis from Heaven」『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、2003年、78ページ.

最近あまり聞かなくなりましたが、バブルの頃から世紀を跨いで、ファルス=ロゴス中心主義などということが言われていました。そのファルスについて、「おしつぶされた私を/そのまんなかからあたためてくれた」などと詠ってくれる詩人でもあるという点から、何か引き出せないか? という気もしたのですが、それでは、「男性/女性」一般についての解釈にしかならないでしょう。私個人としては、「でもあなたのようなひとには、私の作品を読んでもらいたくない」、と言われてしまう可能性についても、考慮しないわけにはいきません。
それで、適当な誰かに続きを書いてもらいたいな……、という感じなのですが、あなた、いかがですか? それでは……。

*1:一般的な意味での凄まじいではなく、同じ作品のあとのほうに見られる、「結局は、助産婦さんが、私のパッドについたそれを分析して、『確かに破水です』ということになった。ひとの、血にまみれた分泌物をパッドごと検査するという、助産婦とは、すさまじい職業だと思った」、という部分の「すさまじい」に呼応させてみたのですが、こういう引用ってありなのでしょうか?
小池昌代「産褥棟」『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、2003年、135ページ.

【HHM参加作品】研究室を占拠せよ!

こんなこと書くとまたどうせバカ扱いされるのだろうが、ブリコラージュだとか、テクストだとか、シミュラークルだとか言っていた連中が、誰かある他者のパクリを非難するのだとしたら、その非難をしている当の本人は、自己矛盾しているのだと思う。

確かに僕、あるひとのブログからパクリましたけど、僕にパクられたそのひとだって、必ず誰かからパクってる筈ですよね? どんな大著者の聖典だって、パクリを器用に継ぎ接ぎしたものに過ぎないんでしょ?
そもそも大量の著作物の集積の外側に、「これを書いたのは俺だ!」なんて主張できるようなエゴなんて、存在してるんですかね? 誰かあるひとが、現にそういう風に信じていたとしても、そんな信念、幻想でしょ?
僕だけじゃないですよ、誰かからパクってるのは……。世界はコピーに満ちている! 大体これこそがオリジナルだなんて言えるようなオリジナル、どこにも存在してないんですよね?
だったらどうして僕だけが、剽窃を理由にして単位落とされなきゃならないんですか? 僕の単位落とすより先に、アルチュセールデリダボードリヤールの著書、発禁にして回収しろよ!

──たとえばフランス現代思想系のひと達の中で、なおかつ大学で講義をしているようなひと達は、上のようなことを言ってきた学生がいたとしたら、その学生に対し、ちゃんと単位をあげるべきだと思う。その学生が提出したレポートがコピペででっち上げた紛い物だったとしても……。

「そのフランス現代思想系のひと達ってナニ?」
どうせそんな風に言って、スッとぼけんだろうなあ……。だったらいいや……。
今僕が問題にしている先生方が、アルチュセールデリダボードリヤールも知らないという想定でだって、上に書いたような主張は、可能な筈だもんね……。
「あのね、先生、デリダによるとね──」
こいつ、デリダも知らないのか! という雰囲気を大いに醸し出しながら、上のような主張を繰り返してやればいい。

僕のほうは何度も何度も、そういうことされてきたんだよね。勿論、バカ扱いされる側でだったけど……。
アルチュセールによると──」、「ボードリヤールによると──」。本当にあの“よると族”とでも呼ぶべき連中は……。

「だからその、デリダとかいうひとがなんだというんだい? もっと具体的に、君自身の言葉で、説明をして貰えないかな?」
「いやその……、デリダぐらい自分で読んでて貰わないと……。もうちょっとちゃんと、アンテナ張っといて下さいよね……」

ベンヤミンによると現代は複製技術時代で、芸術その他、あらゆる創作物についてのアウラなんてものは、消失しちゃっていてね──」
なんてことを言い出す野郎も、まだまだいそうだなあ……。

───

以上は昨夜(2013年1月30日)、TBS系のラジオを聴いていて、荻上チキとかいうひとが言っていたことにまあちょっとカチンときて書き殴ったものなんだけど……、その荻上とかいうひと、確か社会学者という風に紹介されていたと思う……。
というわけで、このひとが必ずしも「フランス現代思想系のひと達」ってわけじゃないのだけど、ただ、ウィキペディアなどをザッと見てみただけでも、「テクスト論、メディア論を専門としている」などという記述があって、この「テクスト論」というほうが特に、僕にとってはクサいのだ。

他にも、「東京大学大学院学際情報学府修士課程修了」って記述だとか……。この「学際」って言葉も、後ろに“的”などとつけて「学際的」などという形にすると、ある時期ある種のひと達によって、本当に頻繁に使われていたというか……。

たとえば──、
「どうして日本の学会って、専攻は? ほほうっカントですか! っていうような話にばっか、なっちゃうんだろうね? そうじゃなくって、もっとこう学際的に……。大体さ、構造主義だとかだって、それは哲学の問題だ、いや歴史学だとかだって、対象を限定できるような考え方じゃないでしょ。ボクは構造主義アインシュタインを扱ってみたんだけど、これが実にピタッと嵌ってね! いや修論でだったんだけど……、指導教授に、よかったら出版社紹介しようか? なんて、勧められちゃったよ、ハハハッ」
──みたいな……。

───

学生諸君! フランス現代思想系の教員達の研究室を占拠せよ! あんなインチキ連中に、君達を落第させる資格はない!

───

引用参照文献
荻上チキ」『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E4%B8%8A%E3%83%81%E3%82%AD
……本当に書き殴っただけのもんなんで、取り敢えずはこれだけですかね……。

自己紹介代わりに…

ルサンチマン自意識過剰被害妄想……。
そういった類の“知ったふうな言い方”が大嫌いです。

ルサンチマンニーチェアン気取りの連中が良く使う言葉──。

自意識過剰被害妄想心理学用語? なのでしょうか? とはいえ、ちゃんとしたカウンセラーに言われているわけではないのです……、私の場合……。
小此木啓吾辺りを読んだ素人心理学者連中が、自分がいいカッコをしたいというただそれだけの理由で(その他の理由は考えられません……。「君のために言ってるんだろう!」って、まさかね?)、普段は気が弱い私のようなタイプを、鴨にしているわけです。
そもそもカウンセリングって医療行為なのでは? それを本人が望んでもいないのに、無資格でやっているわけです。いいんですかね? そんなことが許され続けちゃって!

小此木啓吾辺りを……、と書きましたが、この小此木啓吾というひとはフロイト関連の新書なども書いているひとで……、フロイトと来て、そして前記ニーチェと来れば……、私の嫌悪感の対象を明確化することができる……、という気がするのですが……。

[……]今村は、『現代思想の系譜学』(筑摩書房)や『現代思想のキイ・ワード』(講談社筑摩書房)などを中心に、現代のいわゆるポスト構造主義的な思考に関する論評を精力的に書いている。アルチュセールラカンフーコードゥルーズデリダらの思考や、その思想史的な源泉ともいうべき“グレート・ジャーマン・トリオ”──マルクスニーチェフロイト──のラディカルな問題提起、さらにはハイデガーアドルノらによる形而上学批判の作業、これらが思想史のなかでもつ意味を、彼は、問題構制(プロブレマティックス)の系譜関係という視角から明快に描きだしたのであった。

鷲田清一「解説 《破壊的》な知性」今村仁司『排除の構造』(ちくま学芸文庫筑摩書房、1992年、275−276ページ.

要するに私は、ポストモダニズム系の連中が大嫌いなのです。

───

それと最近気になるのが、承認欲求という言葉です。
今日もまたその言葉に出会いました。ネットで新刊案内を見ていて……。

[目次]
1 [……]
2 [……]
 .
 .
 .
9 在特会に加わる理由―疑似家族、承認欲求、人と人同士のつながり…みんな“何か”を求めている

安田浩一ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて講談社、2012年4月.

この本のテーマである在特会の問題自体は取り敢えず保留にしてもらって(あるいはお好みに合わせて、“対象を括弧に入れてもらって”、などという言い方をしたほうがいいかもしれませんが……)見ると、抜き書きにして示した部分にもある「疑似家族」、とか、「みんな“何か”を求めている」、とか、なにやらレッテル貼りと、心理学なり社会学なりの学術用語を気取った紋切り型とに溢れ返った本、といった印象を拭い得ないのですが……。
(目次だけでなに言ってるの! って……。とはいえ目次って、その本の“マニフェスト”とも言える部分なのでは?)

以上。
自己紹介代わりになっているでしょうか? 自分では、性格が良く出ている文章だと思うのですが……。文章になっていない……。それはそうかもしれませんが……。

失礼しました。